綿矢りさ「勝手にふるえてろ」

文学界 2010年 08月号 [雑誌]
なんとなく、「文学界」を手にしたので、読んでみた。
ブンガクの「ブ」も理解できない自分がこんなこと書くのはおこがましいにも程があるのですが。。


月並みだけれど、綿矢りさについては「インストール」のときの当時「女子高生」(というコトバは今使っちゃいけないんだったか?)、そしてなんといってもあのビジュアルのイメージが強すぎて。


カワイコちゃん好きとしてはもう仕方ないのです。かわいいんだから。
(あるいみ差別といわれてもしかたがない乱暴な言いわけ・・)
プロモーションの仕方とか、そういうオトナのチカラもあったのかもしれないけど。
多くの不純文学少年たち同様、色んな妄想をしましたよね。
名前も、なんともいえずかわいいしサ。

その後大学に入って卒業して専業の作家さんになってるというのは知っているし、インタビューとかで本人が話をしているのを見たこともあって、しっかりちゃんとした「大人」だってことはわかっているし、なにより作品を読めば、ビジュアルがどうこうでチヤホヤされてるわけじゃないってことは十二分すぎるくらいにわかるのだけれど。


物語を読んでいても、どうしても「作者」が頭をちらついてしまう。

たとえばこのお話も、主人公は企業の経理に勤めるOLということになっているけど、作者はきっとそんな世界や人物のことを知っているわけがないだろうなあ、とか。

ものがたりや創作物が、作者の経験に基づいてなきゃいけないなんてこれっぽっちも思わないのに!


作品そのものより、作者のイメージが前に出てきてしまう、という状況について。
私の場合はどうも「作者」をにおわせる作品に抵抗感があって、「作品」として独立しているものにかっこよさを感じる傾向がある。
じゃあ綿矢作品が前者かというと、「否」だとおもう。

そんなことは微塵も感じさせない完成度の高い作品だ。

たぶん読者の私が「ものがたり」に触れる経験があまりに浅すぎるので、実在する作者についてや自分の知ってる情報だけで判断しようとするから、そういう稚拙な思考回路になるのであって、もっといっぱい読んだり見たり聴いたりしないとイケナイってことですハイ。


ブンガクに限らず、表現するものが、「ものがたり」で、しかも彼女のように一人称のかたちをとっていたりすると尚更、「作者」のイメージはみるものに影響をするんだろうなと想像する。
そのあたりはきっと本人も色々悩むのだろうなあと勝手に思うのだけど。


本当に勝手なことを書きすぎました、ごめんなさい。

それから、「蹴りたい背中」もそうだったけど、タイトルのつけかたが、とてもいいなあとおもう。


***


そういえば、「インストール」のなかで、いまだに忘れられないくだりがある。
細かい表現は再現できないのですが、かずよし少年の母親になった人について、「度を越えた不器用は、単なる不器用じゃすまされない悪だ」みたいな。


私はいろんな意味で不器用で要領がわるいので、そのせいでちょっと居心地が悪くなった時とかに、

「自分、不器用なんで」

と半分冗談半分本気で自虐ネタにしてお茶を濁したりするのだけれど、そのたびにこれを思い出してゾクっとしたりするのです。