労働と意欲と決断力(長文メモ)

自分について、ふと気づいたことのメモ。

仕事と意欲


長い休みになると、なんだか不安で落ち着かなくなり、妙な罪悪感や焦燥感を感じてしまう。
そのくせ腰はどんどん重たくなって、無為な時間をすごしてしまう。

これは怠けものの言い訳かもしれないが、決してワーカーホリックということではなくて(実際今仕事をしていないのだし)、逆に、働いてることで起こる意欲がないせいのかもしれない。とふと思った。


「ヤル気(意欲)が出ない時はまず、簡単・小さなことでもいいからなにかはじめるのがいい。動作を始めることによって、頭や体が動き出す」というようなことを脳科学者かなにかがが言っていたが、それに近いような。

仕事上の任務があって、それについて考えたり動いたり人と話をしている中で、「あ、これはおもしろいな」とか「こういうことってできるかな?」とか、はたまた「今度時間があったらこれをしよう」という「意欲」が沸いてくる。仕事についてもそれ以外についても。(集中力がないといわれてしまえばそれまでだけど)


そして、同じようなことで、どうやら自分の場合は「決断力」も関係がありそう。

「AかBか?」仕事での決断力


仕事をしているときの「AかBか?」はすぐに決断できるが、プライベートのそれは、些細なことから重要なことまで全く駄目でぐずぐずしてしまう。
その結果、色々なタイミングを逃して、余計な気を使ったりお金をつかったりしなければいけない事態に陥ることが多々ある。


これが仕事であれば、たとえ決断を下すのが自分ひとりに任されていても、結論は割とすぐに出せる。
当たり前のことだが、最終的な目的や、自分の役割、決断しなければいけない期限が明確だからだ。
迷うことはあったとしても、えいやで「きめ」てしまい、もろもろはその後考える。というより、そもそも仕事上の決断は最終目的のプロセスについてであることが多いので、決断そのものよりも、その後の持って行き方の方が重要なことが多い。


たとえば、

  • Aのルートの方がコストは高いが早くたどり着ける。
  • Bのルートは時間はかかるが、コストは抑えられる。


という「AかBか」の判断をしなければいけないとして、


仕事であれば、その目的と、置かれている状況、過去の事例、その先の運用など諸々鑑みて、どちらかに決めることができる。

そこで重要なのはどのルートで行くか、ではなく、いかに効率的にゴールにたどりつくか。
だから、たとえAを選んだとしても、なるべくコストを抑える手はないか考えるし、はたまたより早くするためにはどうするか頭をひねる。逆もしかり。

そしてゴールできるならば、文字どおり「ウルトラC」を繰り出してもいいし(出せるならの話)、はたまた鶴の一声で、普通に考えたらありえない「Dコース」に進むことになったとしても、そこからゴールへ持って行くのが「仕事」というもの。

はっきりできないプライベートな決断


ところがライベートな決断は、「自分設定の理想的な期限や目的地」はぼんやりあるものの、その時期を逃したり、万一間違ったところに着地してしまっても、人様に迷惑をかけることはない。

AかBか、時間をかけて道に迷った挙句、雨に降られてしまったり、終電を逃してタクシー代がかかってしまうという散々な結果になったとしても、自分にふりかかってくるだけなので、「自業自得だし、まあしょうがないか」となる。

結果も、プロセスも、全て自分に返ってくる。
これは裏を返すと仕事はそれらが最終的には自分ではないところにあるから「他人事」になっていて、無責任な判断ができるというようにもとれそうだけれど、そうではなくてむしろ、「他人事」だからこそ的確な時期に的確な決断をして、物事を進めなければいけない、という責任感のシバリがある。

決断と責任とやりがい


そしてその責任感の「シバリ」が「やりがい」でもあったりする

ひとりでウロウロしていて、意外と早く目的地についても「ラッキー♪」くらいのもので大した手ごたえはないけれど、大掛かりな登山プロジェクトの成功に自分が加担できたら、それは結構な快感のはず。


表現としてははあまり好きではないけれど「ケツを持つ」というのが仕事の本髄なのかもしれない。(無職の自分では説得力ナシですが)

プライベートはゴールがふにゃふにゃ


そして、プライベートな決断ができない理由でもうひとつあるのは、「自分設定の理想的な期限や目的地」が色々な意味で甘い。ということ。
設定そのものも、その結果へのコミットも。

これは確信犯的でもあって、自分ひとりの考え付くことなんてたか知れているので、環境や偶然によってぐにゃんぐにゃんに変形してもいいと思っているし、むしろその柔軟性をもっていたい。なにより外的な要因や偶然で、プロセスや結果が変わるのが楽しい。なんて考えていたりするから。

とはいえ、こうありたい、ここにたどり着きたい、という指針はあった方がいいに決まっている。
大きな決断はまだしも、些細なものだと、どうも「どっちでもアリ」という気持ちが優柔不断をひきおこすらしい。

ありきたりな話だけど、こんな結論。


どうやら自分は自分の生活だけのために独りで働くよりも、何か「肩の荷」があった方が、ちゃんとするようだ。

独立したいという希望と矛盾するような気もするけど、事業や商売の単位が独りだったとしても、仕事を通じてある程度の個人よりも大きな単位(何らかの取り組み・プロジェクトだったり、団体だったり)と影響しあえる立ち位置が望ましい。

そして目下の課題は、「どんな方向に向かって、どういう態度でありたいか」という個人としての指針を(あとで変わってもいいから)しっかり立てること。


嗚呼なんて当たり前な話。