花の文化基礎まとめレポート

(課題:講義内容を参考に、今後の花と人との関係について意見、感想を1,000字前後で)

「リアルな花」をもっと身近に。


花の文化の講義を通じて感じたことの一つに、洋の東西を問わず、人々が「花」を愛し敬うのと同じくらい、何とか自分たちの思い通りにコントロールしようと手をつくしてきたのだということがある。
その結果として現在の花は、「種をまいて、芽が出て、花が咲いて、種が成ってそこから新しい個体が生まれる」というような大抵の人が想像しているような過程ではなく、工業製品的な過程を経てやってくる。

「自然環境」、「エコ」などのキーワードには、決まって記号化された地球と花や双葉のイラストなどがあしらわれている。そんなふうに、ヒト以外の生命体、自然をイメージさせるものの代表として使われる、「生き物」であるはずの花が、じつは自然とは全くかけ離れている。

もしかしたら人々はそれを知らずして感じているのではないか?
その感覚の延長線上でいえば、高級ホテルのロビーを飾る豪華絢爛な壺活けも、パチンコ屋の表に立っている「あの物体」のグレードを上げたものでしかない。

花がリアルな「生き物」ではなく、人が作り加工し利用するための資材、パーツとなってしまっているのだ。

ところで、今年専門学校に入って、フラワーアレンジの練習をするにつけ、沢山の花達と顔をあわせていると(自分などはまだまだ日が浅いので偉そうなことはいえないのだが)、それまで持っていた「きれいだな」というような単純なあこがれや感動は薄れ、種類豊富な色や形とその量に酔ってしまうような感覚になるときがある。(技術の未熟さゆえの言い逃れも多分にあるだろうが)、それは、植物のからだの一部分に過ぎない「花」だけを大量に切り取って「消費」するという行為への抵抗感のような気もする。

しかし、だからといって品種改良や農業生産、切花の文化が悪とは思わない。
結婚式の花嫁には美しいブーケを持って欲しいし、来賓者には鮮やかな色の花びらのフラワーシャワーを舞い上げてもらいたい。
記念日に花束をもらえればうれしいし、お見舞いには花を持っていきたい。
誰かの門出は華やかな花でお祝いしたい。
そして、肥後六花のようなもはや芸術としかいえないような伝統も大切にしていくべきだと思う。

花の持っている、くらしに華やかさや豊かさを加える「材料」としての面と、「生き物」としての面。どちらか一方ではなく、両方のバランスをとることが必要なのではないだろうか。

日本人が年に一度しか花屋を訪れないのであれば、同じく年に一度だけでも日本固有の自生のユリを実際に見に行くような、そんなバランスを、広く一般の人々かとれるようになればいいと思う。
リアルな「自然」を自分の目で見て、手で触れて、感じること。
花卉、園芸に関わる私達は、そのきっかけを作ったり、橋渡しを手伝えればいいのではないだろうか。それは単なるきれいごとではなくビジネスとなりうるはずだし、なにより両者にとってとても心地のいいものであるはずだから。